これが本当の自分…?
ここ数年。私は本当に変わったと思う。
それは"推し"と呼べる存在の登場により、生きる意味を見出したから。
それまで内向的、というより、ただの死にたがり?。生きていたくないけど痛いのやだから生きるしか無い。死にたい。死ねない。何にも頑張れない。休日は家に…自室に引きこもり、家族ともそこまで話をしない。ゲームをして、寝て、それが私だった。
だけど、変わってからは自分でも本当に疑うくらい、アクティブになった。
とにかくバイトのシフト調整で出てほしいと言われれば積極的に即答でYesを返すし、人の為に動こうとして、自分の始業前にちょっぴり前の人を手伝ったり、ボランティアとか募集してたらやって、それでもまだまだ詰め込める、やれると思えるくらい。
でもそれは…本当に私なのか。私がしたいことなのか。
いや、したいから行動に出る。それはわかる。でも、なんとなく変わりすぎて私が私じゃなくなったみたいで、休みを自らなくして、完全なる休みの日の、休み方を忘れたような。
というか、そういうふうに暇をつぶさないと私がまた忌々しい過去を思い出して死にたくなって良からぬことを考えることはわかっている。やらなきゃいけない。自分のためにも。でも、そんな自分になんでも「やれ」って言われてる気がする。私はなんだかとんでもないところまで来てしまったようだ、と。独り歩きが過ぎたかもしれない。
社会から見ればきっといいことしかしてないのに、罪悪感?
強迫観念と似ているようで違うのかも?知らない、こんなのわからない。私はどうしてしまったの、どうしてこんなことに疑いを持つようになってしまったの?正しい道なのに、間違ってる気分になる。
そしてこれはきっと昔からだけど、最近はより薄情になったというか、抑えつけられていた自我の存在にもうすうす気が付き始めている?ようだ。
人との別れに「悲しい、淋しい」というけれど、実際涙がその場で流れた試しがない。あとで1人になったときにどうしようもなく求めるくせに、人前じゃ出せないんだ。
「嬉しい」と思ってるって認識してるくせにどうにも自然の笑顔じゃない。笑顔を作らなきゃ、口角を上に上げて目を細めて、ってこれじゃまるで演技みたい、演技じゃないのに。
心と体とが離れている気がする。嬉しいのに声を高くしている、こういう風に声を出せば喜んでいると相手に認識させられるだろうって感じの、まるで私が私の第三者。俯瞰して、自分のことなのに他人事、客観的。どういうことなの?。本当に感じているものは何?私は何?